四手井淑子『きのこ学騒動記』を読みました。
2023年上半期、読むのが大変だった本・ベスト1に見事ランクインです。いやー、ほんとに大変だった。『f植物園の巣穴』もなかなかだったけれど、あれはあれでストーリーラインがあったんだなぁと思わされました。
しかししかし、分からないことは面白いんです! 薮を分け入り道を切り開くような能動的な読書もたまにはいいものです。この本の面白さの一端をなんとか言葉にしてみようと思います。
四手井淑子という人間
主婦として戦時下で子育てをしていた著者・四手井淑子が、身近に生えていたきのこの面白さに目覚め、きのこ研究の道に分け入っていく……。
このあらすじを読んだ時点で私は彼女をある種のステレオタイプに嵌めこんでいたようで、読了するまでの間にそのことを何度も反省することになった。
例えていうなら朝ドラのような展開を予想していた。時代の波に翻弄されながらも、己の道を突き進む強い女性。興味対象に示す奔放さ……その勝手な印象は、研究対象がきのこであったせいかもしれない。私はきのこについてほとんど何も知らなかった。知らないから、「底の浅い学問だ」と何となく決めつけていた。
どうして読み進めるのに時間がかかったかというと──著者が自己・四手井淑子という自分自身を強固に確立していたから。
『きのこの研究をしているとある人物』ではなく、『四手井淑子』という唯一無二の存在が文字を追うほどに立ち上がってくる。
読み進めるうち、彼女に関する情報は増えていくのだけれど、増えれば増えるほど遠ざかっていく気がした。私が体験し得ない人生だと思った。追体験さえさせてもらえない。私と彼女はどこまでいっても他人同士だった。
『だからこそ』、読み通したかった。宇宙に放り出されるのはこんな気分なのかもしれない。
ほんとに主婦で研究者? 文筆家でなくて??
四手井淑子、ほんとに元主婦か? と疑いたくなるほどもの書きがうまい。最初の数ページで私はすっかり興奮してしまった。たとえばこんな表現。
- 時には青空からダイヤモンド・ダストが、結晶核を捉えたばかりという細かさで光の粉のようにチカチカと空にみなぎり、痛いように落ちてくるのが見られる。
またはこんな一文もある。
- 私の好きな谷がある。粘土層に小さな窯を作り、透明な水がきろきろ銀色の跡をたて心を撫でる。秋はナラやトチが黄色のドームを作って、落葉が金属箔の触れ合いほどの音でリズムを作る。
文才があるのはもちろんのこと、きっと五感が人より鋭いのだろうと思わされる表現が随所に見られる。
彼女の人生のこととなると、もう到底わからない、という気分になるのだけれど、上のような一文を読むと、彼女の記憶の中に滑りこんだような気分になる。まるで自分の記憶であるかのように、ひとつのシーンをありありと体験する。
現実と理想と
私には彼女が所在のなさに苦しんでいるように思えた。
妻、母、研究者──どの肩書きも彼女のすべてを説明仕切ることができず、そのすべてである、と言い切るのは難しい時代だったのではないだろうか。
もしも彼女に無尽蔵の体力があったならば、もっと悩みは小さなものだったのかもしれない。しかし彼女は結核を患って以降、体の弱さに悩まされていたそう。
- 私は寒さにも弱いが、暑さにも弱く、一夏中ぐんにゃり、自ら上げたクラゲのようになってしまうのだったが、目標を持つと、背から扇風機を吹かして、半日がんばっても平気だ。頭にはいる、はいらないは別だが。
やりたいこと(及び周囲からやるべきこととされていること)と、それを成せない自分の体との間で歯噛みする描写は他人事とは思われなかった。
参加した研究会できのこの同定をする先生に「あなたは欲が深い。たくさん覚えようとするから、ひとつも覚えられない」と笑われたというシーンがある。
笑われたことをどう感じたかということは書かれていないのだけれど、その前に彼女の焦りや卒倒しそうに疲れていた、とあるのを見ると、私だったらきっとうまく笑えなかっただろうなと感じて胸が痛い。
彼女はたぶん、もう十分に諦めている。母の介護や孫の世話、夫との関係、老いからくる記憶の衰え。自分の埒外のものにも気力を割いて、これを諦めたら自分が自分でなくなるというところまで諦めているのに、それさえも「無相応だ」と笑われたら、それが例え冗談の軽口であったとしても、きっと何かが死んでしまうのに。
じくじくと血が染み出してくる傷口を見ているようで。致命傷にはならない傷を痛いと言っていいのかどうか。それをずっと問いかけられている、そんな気がした。
私は何度も「いいよ」と言うけれど、紙面の彼女の苦悩は続く。痛くてもいいよ。痛くても。痛がっても。
きのこってなんだ??
タイトルに「きのこ学」とある通り、この本にはたくさんのきのこが登場する。自分の人生について語る彼女は何もかもを達観しきった老女の感があるのに、きのこの話を始めた途端、十も二十も若返る。子どもが積んだ花を並べて「これは◯◯、これは◇◇」と大人に聞かせて楽しむような、そんな無邪気さだ。
特に『動物と茸』の章が面白かった。
きのこというものは木の幹から生えるイメージだったのだけれど、中には動物の死体や糞を発生源とするものもあるそうなのです!
長い根をもつきのこの下を慎重に掘り進めていくと、小動物の巣穴に辿りついたり、きのこの下を掘ってみたら人間の死体が見つかったなんて事例も外国ではあるのだとか。
冬虫夏草もいってみれば虫の死体から生えたきのこなわけで、きのこと死体が結びつくことに違和感はないはずなのだけれど、きのこの種類から地面の下に埋まっているものが特定できるだとか、地中深くからながーく根を伸ばして地表に現れるきのこがあるだとかいう話になってくると、途端にきのこというものがわからなくなってくるから不思議です。
きのこのイメージが変わる一節を2つほどご紹介。
- 人々は食用茸となると大変愛着を示すが、その人たちが毒茸と一蹴する他のきのこがまた数知れなかった。色も形も種々だが、その変幻自在という出没のしかたに私は惹かれはじめる。年中同じ場所にあるものなら、却って魅力は薄いかもしれない。時や場所をえらんだり、勘の力を助けとして探し歩くところも楽しいのかもしれない。木や草はあまりせっせと動くものではないが、茸はまるで動物のように動き回る、と見えた。
- また、ある松の切株の周囲に得体の知れない茸の大束が続々と出た。普通なら切株が原因だろうということでおしまいだ。しかし、松から出る茸はたいがい限られているから、そこにひとつの疑惑も浮かぶ。(中略)その時、相良さんがまた、あるとも思えないかすかな菌糸を追ってついてに到達したのは、地下深くに埋まった松以外の腐木であった。
スーパーに並べられたつるんときれいな「きのこ」を見知っているだけの私と、きのこを研究している人物から見た「きのこ」はもう全くの別物なのかもしれない。
まとめ もがきながら生きる。望んだ道でないとしても
ポジティブだとか前向きな姿勢、笑顔や優しさといったものに憧れがある。
優しい人になりたい。いつでも明るく人生を謳歌していたい。贅沢な願い、もっているだけである種の重荷になると気づいてはいる。それでも手放せないのは、「そうしなければ愛されない」と心の奥に刻みこまれているからだ。
私は四手井淑子の諦観が好きだ。焦燥が好きだ。
これは他人だから言えることで、彼女に成り代わりたいとは思わない。だけども、彼女の、自身の弱さを吐露できる強さは眩しい。私も生きていこうと思える。
きれいでも、完璧でなくても、色んなものに歯噛みする日々でも、死が恐ろしくても。大丈夫とは言い切れないけど、それでもいいのかもしれないとちょっとだけ勇気がでる。
悔しさを抱えている人におすすめの一冊です。きのこの世界の奥深さを覗きこんでみたい人にも。
今回のお隣本
- 森見登美彦『有頂天家族』
こちらは現代日本で繰り広げられる狸一家のドタバタ劇なので、『きのこ学騒動記』とはテイストが大きく違うんですけど、舞台がどちらも京都ということ以上に、なんだか不思議とシンパシーを感じるんですよね。家族の話だからだろうか? 作中漂う切なさの質が似ているのかも。 - 梨木香歩『f植物園の巣穴』
なんども取り上げてすみませんね。好きなんです、許してくれー。こちらもすごく個人的な話で読みにくさMAXなんですけど、本作と同様、わからないって、他人って面白いなってなれる良作です。詳しく感想をまとめた過去記事はこちら。
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