宮部みゆき『黒武御神火御殿』を読みました。
怖い話を好んでよく読む。
これはここ数年に限った話で、元々はホラー・怪談・心霊写真といった類いはめっぽう嫌いだったから、自分でも不思議でならないのだけれど。
理由はわからないまま、今日も今日とて怖い話を読む。
手に取ったのは、宮部みゆき『黒武御神火御殿』。
舞台は江戸。黒白の間という名の一室に客を迎えて、不思議な話を聞く、という一風変わった百物語をおこなっている三島屋を中心に繰り広げられる『三島屋変調百物語シリーズ』の六巻目。
前作までのおちかから富次郎へと聞き手が交代し、黒白の間では少し艶めいた話や、襖の中で火山が轟く不思議な屋敷の話などが語られる。
客が置いていく話の内容はさまざまだけれど、どの話にも共通しているのが「外ではうかつに話せない」ということ。
世間話の題材にするには突拍子がなさすぎるし、打ち明け話にしては内容が少々尖りすぎている。
これを書いている私自身は、不可思議な出来事に遭遇したことは残念ながらない(一度は経験してみたい)。でもそんな私でも、「こんな話があってね」と切り出すには重すぎる話ならいくつか持ち合わせがある。
聞き手に何も背負わせたくない、笑われたくない、蒸し返したくない──ないないづくしで記憶に蓋をするのだけれど、『そういう話』ほど胸のうちに黙って収まっていてはくれないものでして……。
きっと三島屋に訪れる語り手たちもこんな気持ちなのだろうな、とぼんやり想像を巡らせながら読み進める。
「たった一度、知らない人になら」と、妖しい話を口の端にのぼらせる人たちのことを。
特に興味を惹かれたのは、三人目の客が語った『同行二人』。あらすじはこんな風だ。
飛脚の亀一はある時、流行病が原因で両親と妻子をいっぺんに亡くす。なぜ自分ばかりがこんな不幸な目に合うのか、と運命を呪いながら仕事に打ちこむ毎日を送っていたのだが、箱根の峠を越えてしばらく走った頃、亀一は気づく──顔のない、棒立ちの男が一定の間隔を置いて後をついて来ることに……。
目鼻のない顔を認めて叫び、走り、しかし走れども走れども幽霊を振り切れないことを悟った亀一は、幽霊と関連しているであろう茶屋まで引き返す中、とある気づきを得るのだけれど、私はそのシーンに胸を突かれてしまった。
- ふと、頭のなかに灯がともったように思った。俺は支配人に、化け物に取り殺されたらどうしようなんて言った。いつ死んだっていいと思っていたのに、どうして俺だけ生き残ったんだと恨んでいたのに。
- 俺は命が惜しいんだ。
- 「そう思う自分が情けなくて、でも命があって走れていることが嬉しくて」
- そうだ、俺は生きていることが嬉しい。
- 「今まで、その気持ちを認めたくなくって、あっしはひねくれていたんでした」
妻子を亡くしたのに、生きる喜びを感じる──それは人間の性として、ごくごく当たり前のことなのだけれど、人によっては「じゃあそんなに愛してなかったんだね」とくさすこともきっとあって、亀一の場合は自分で自分を責めている。
人間は、悲しいことがあっても「生きていかれてしまう」。
心は死にたいほど辛いのに、身体は頑なに生きようとする。
その、自分ではどうすることもできないシステムが、悲しい。
怪談を語るには生きていなければいけない。
怪談の語り部は「気軽に口にできないほどの怖いことがあったのに」、生きていかれた、もしくは様々な理由で生きていかねばならなかった人たちだ。
そういう人たちが自分の他にもいると思わせてくれる『三島屋シリーズ』が私は好きだし、怪談・ホラーがついつい気になってしまう理由もきっとそこにある。
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