芦花公園『異端の祝祭』を読みました。

Kindle Unlimitedが2ヶ月99円セール中ということで、さっそく登録した。エンタメ本のラインナップが十全とは言い難いものの、スルーしがちなジャンルや作者とのいい出会いが少ないくないので侮れない。

カタログを人気順にしばらく手繰ってピックアップした中の1冊が芦花公園『異端の祝祭』。なんだかんだホラーに手が伸びてしまうー。


芦花公園の本を読むのは今回で二度目だ。神がかり的な能力を有した人物が事件の中心にあるという点は、以前に読んだ『とらすの子』にも通じるものがあり、「こいつが事件の元凶だ!」と、犯人の当たりはけっこう早い段階で目星がついてはいたのだけれど……。

事件が真相に迫るにつれ、妖しいとか、怖いとかいう以前に、私の思考を占めたのは、「厄介だなぁ」という感情だった。

人が死ぬだとか、行方不明だとか、確実に被害者が発生しているのだけれど、事件の周囲に漂う悪意の気配は薄い。……というのも、事件の元凶たる人物は『悪』というより『邪悪』の二文字が似合いの心根でして。

「悪いことするぞー」と思って計略を張り巡らせてるわけじゃあない。悪いことができる能力をたまたま持っていたために、人生の選択に『悪いこと』が入ってきてしまった、てな具合の人間なのです。だからどうしても、善意で諭したり、法でもって裁くことに意味があるのかなー、と思ってしまう。そこら辺りは、なんなら魑魅魍魎を払うよりも厄介かもしれない。

読み進めるほど、正義の所在が曖昧になっていくようで──読者である私は自身の身の置き場がない。感情移入の先を見つけられないまま、登場人物たちの周りをふわふわ漂っているような、そんな不思議な読書体験でありました。

加えて思ったのは、宗教って物語なんだなぁってこと。

何かしらの意味を見出さないとただただ生きるだけでは辛くなってしまう人間の性質に、物語性を多分に含んだ宗教は相性バッチリ! なのだな、と。

私は何かしらの宗教を積極的に信仰してはいないけれど、「◯◯をしたから悪いことが起きた」とか「これまで不幸だった分、今回成功できたんだ」というような因果律に則って自分の人生を把握しようとする姿勢は、信仰の種のようなもの、という気がする。「特定の宗教を信仰しない」という戒律を設けてる宗教を信仰している、と言えるかもしれないし。科学を信奉するというのも、けっこう宗教的だなと度々思う。

話は変わるけれど、芦花公園、モラハラ的な支配関係書くのめちゃくちゃうまい! 「明らかに異常な事態の渦中にあるのに、事態の中心人物の近くにいる間は幸福でたまらなくなる」という描写には拍手喝采を送りたいです。 

作中では、中心人物は通常ならざる力でもって人を惑わしている、ということになっているけれど、支配の最中にある登場人物の内面描写は、モラハラ被害者の思考回路そのままで非常に好感がもてました。

私は、モラハラ被害者の思考回路・価値判断に一家言あります! なにせ経験者ですので。あはは。だから、本にしろ、映像作品にしろ、暴力描写で色々思い出して気分悪くなることもあるのですが、本作のようにリアリティのある暴力描写は大好物なんですよねー。あるあるネタを見ている時と同種の気持ちよさがあります。

目の前の人物がもたらす不快な状況に吐き気を催したり、怖気で肌を泡立てながら、その人物のそばで安らぎを感じたり、愛したりすることは全然可能なんですよね。人間って不思議な生き物だ。

心理学や宗教学の専門書に目を通した後のような、「なんかよくわからんことも多かったけど、とにもかくにも人間っておもしれー」ってなりたい方におすすめです。

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