斜線堂有紀『回樹』を読みました。

好きにも色んな種類がありますが、私が斜線堂有紀に対して抱く「好き」は信頼に似ている。

毎日欠かさず通うわけではないのだけれど、店先を通ればメニューに目を通しはするし、『新発売!』の文字を見たらのれんを潜らずにはいられない――そんな感じの「好き」。

今回は表紙のイラストとデザインが好みなのと、表題作を読むのが楽しみすぎて、発売後即立ち寄りました。いやー、今回も端から端まで美味しかったー!


表題作のタイトルにもなっている『回樹』とは、秋田県のとある湿地に突如として出現した謎の物体。上空から見ると、全長1キロの青い巨人が回復体位をとっているように見える。

これに人間の死体を近づけると、するすると飲み込まれる。そして、生前その飲み込まれた故人を愛していた人は、生前と同様の愛情を回樹に対して抱くようになる――。

作中では回樹の性質を、別種の生物を生殖史の中に組み込んで、繁殖をする生物になぞらえていた。回樹は、人間に愛情を抱かせることで存在を脅かされないようにしているのだと。その説を支持するかのごとく、回樹の元には次々遺体が持ちこまれ、その数だけ回樹を愛する人口も増えていく。

愛する人が亡くなっても、その存在を愛し続けられる──それは良いことのように思う。少なくとも悪いことではないだろう。回樹のある世界の人々は、喪失を克服した。

だけど──ひとりを愛し続けられるということは、他の誰かを愛せないということでもあって。耐えがたい喪失の後にあったかもしれない、新たな出会いの可能性が、回樹のある世界ではきっと限りなくゼロになる……それってちょっと悲しくない? と思ったりする。

たぶん『回樹に抱く愛情』は、愛する人が死んだ時点の愛情の深さが反映されるのだと思う。もしもその人が生きていたら嫌いになっていたかもしれない、関係が1ヶ月後には破綻していたかもしれなくても、回樹に遺体が飲み込まれた時点で深い愛を抱いていれば、それがおそらく半永久的に持続する。

私は回樹を使う側の人間だ。喪失の痛みに耐えられる自信がない。今でも月に何度も考える。この人が亡くなったら、私は一体どうなる? どれくらいで立ち直れる……? それでもやっぱり少し怖い。回樹が提供してくれる永遠って、ちょっと理想とちがう気がして。

宇都宮博、神谷哲司『夫と妻の生涯発達心理学 関係性の危険と成熟』に、パートナーとの死別に関する章があった。

  • Aさんは、夫の死後、深い落ち込みや虚無感を感じていたが、死別から四年という時間の経過の中で「死別自体は悲しい経験であったが、それにも意味があった」と話した。そして夫との関係を振り返り、現在でも夫の存在を感じながら生活していることがうかがえた。また、BさんもAさん同様、夫を亡くしているが、死別後の夫との関係を「亡くなった後も、やっぱりいろいろと助けられますよね。だからね、本当にまだ続いてるんですよ、主人との関係が」と語った。
  • (中略)愛する人を失ったとき、生前の関係性に捉われたままではなく、関係性の捉え直し、もしくは関係性の質の捉え直しを行うことで、残された者の心は癒やされていくものと考えられる。
宇都宮博、神谷哲司『夫と妻の生涯発達心理学 関係性の危険と成熟』

死では関係は断たれない、大事な人間の死後もその人との関係性は形を変えながら継続することができる──私はそう思えばこそ、波のように襲ってくる不安をどうにかいなすことができている。

『回樹』に登場する尋常寺律は、恋人であった千見寺初露の遺体を回樹に飲ませることを選んだ。おそらく律はその選択によって、初露に何かしらの「本当」を見せたかった。

律は回樹に遺体を飲み込ませた動機を「自分が初露を愛しているか確かめたかったからだ」と語ったけれど、彼女が求めていたのは自分が回樹に愛情を抱けるかどうかではなくて、愛情にしろ憎しみにしろ、律に対する何らかの感情を半永久的に抱いて生きていく、そのための選択であったのではないか。喪失や忘却、記憶の再解釈といった類いの救いを、尋常寺律は手放した。

  • 「でも、今だから思うことがあるんですよ。本当に愛していたとか愛していないとか、本物なのか偽物なのかは関係なかったのかもなって。頑張って千見寺初露を愛し続けようっていう気持ちは、もう愛って呼んで差し支えないんじゃないかって。どうですかね。早島さん」

尋常寺律の問いかけに、私なりに答えてみたいと思う。──彼女の言う通り、彼女が初露に抱いていた感情はまぎれもなく愛だろう。

愛があったはずなのに、初露が死ぬ直前の2人はうまくいってはいなかった。心安らぐ瞬間もあったのだろうが、2人の意見がすれ違い、時に歪み合う様子の描写に紙面の多くが裂かれている。

これは私の自論なのだけれど、人は特定の人物を生涯愛し続けることができる。──両者の距離が適切であったならば、という条件付きではあるけれど。

時間の経過とともに深まりも薄れもする愛情に合わせて、人間同士の物理的・心理的な距離感の調整をし続ける。そうすれば愛情が限りなく薄れたとしても、お互いの生活の様子が知れないくらい遠くの場所で暮らせば、お互いに愛し続けることはきっと可能だ。

距離の設定を間違うと、愛は容易に憎しみへと変じる。円満な関係性の継続を望むなら、律と初露は離れるべきだったのだろう。一緒に暮らした家を出て、別々の場所に住まいをかまえて。……なんて訳知り顔で言えちゃうのは、所詮私が部外者だからなんだよなー。離れられないよ。だって律も言ってた通り、まだ愛はあるんだもの。

斜線堂有紀は、この、愛から憎しみへの変遷、感情の境界線を描くのがべらぼうに上手いのです! (『回樹』がお好きな方は、『死体埋め部の悔恨と青春』もお口に合うと思います)

大事な人間の喪失は苦しいことだけれど、煮詰まってしまった関係にあった場合は、永遠に交わることのない距離に相手が逝くことは救いにもなるのかもしれない。愛するための適切な距離を、死はもたらしてくれるのだから。

『回樹』、恋愛もののハッピーエンドは嘘っぽくて楽しめない、リアリティのある恋愛を見せろ! 、ハッピーエンドのその後を見せろー、という人におすすめです。

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