雨宮純『あなたを陰謀論者にする言葉』を読みました。
コロナ禍を経て聞かれるようになった言葉『陰謀論』。
私がこの言葉に注目するきっかけとなったのは、雨宮純さんが今年の頭に投稿したnote『雨宮純が選ぶ、2022年の陰謀論トップ10』だった。SFの設定か? と思うような説が、ランキング付けできるほどの数世間で流布していることが衝撃的だった。それを本気で信じている人が一人や二人ではないということも。
雨宮さんのツイートを日常的に目にするようになって気づいたことがひとつ――陰謀論者のツイートがむしょうに気になる……。
信じている訳では決してない。何を言いたいのか理解できない内容も多い。人を馬鹿にするような発言もあったりして、見ているだけでイヤな気持ちになる。――それなのに、見てしまう。一日中、考え続ける。
わざわざ自分から進んでイヤな気持ちになりに行く訳が、自分でもわからなかったのだけれど、ある日、唐突に気づいた。
──ああ、こういう感じの発言、『あの人たち』にそっくりだ。
無知ですべてを飲みこんで
『あの人たち』とは、母であり、父であり、祖母であり、教師──私とソリが合わなかった大人たち。
彼らはわかりやすい暴力こそ振るわなかったけれど、折にふれ、私をないがしろにする言動をした。反発や失望を知らなかった幼い私は『私は無知だから』と思うころで、彼らとなんとか折り合いをつけてきた。
『彼らには彼らなりの事情がきっとある。それがわからないのは、私がバカだから。せめて迷惑をかけないように大人しく従っておこう』
そうやって、自分に都合の悪い理屈の数々をどうにかこうにか飲みこんできた。
私にとって家族は真綿だ。大抵の時間はふやふやと温もりをくれるけれど、それがいつ締め上げられるか、わからない。「苦しい」と訴えても無駄だ。「あなたのために用意した綿が、あなたを苦しめるわけないでしょう?」と言われて終わり。
彼らのそばにいる限り、私は永遠に幸せでしかありえず、その前提を崩さないために、不幸や苦痛のいっさいを腹に隠し続けなければならなかった。私は「苦しい」と言える権利を獲得するために家を出た。
成人し、親元を離れたことによってようやく自我らしきものを獲得した私は、彼らに自分の気持ちをわかってもらおうと対話を試みた。けれど、彼らは軒並み「悪気はなかったのだ」と言うだけで、謝罪の言葉は得られなかった。「あなたたちの言動で傷ついた」という私の言葉は今も宙に浮いたままだ。
私は彼らと分かり合うことを諦めた。けれど……
理解しがたい意見を無視できない
体に染みついた癖を意思の力でねじ伏せるのはむずかしい。
幼い頃の習いによって、私は自分のものとは違う意見であればあるほど耳をすませる。理解――飲み下せるように、咀嚼を試みては、それが叶わずやきもきする。
『この人は自分とはちがう意見を持っている』と感じる状況が不安でたまらない。足下がグラつく感覚。この不安を早急に排除すべし、とアラートが鳴る。
私は今もって『あの人たち』を愛しているのだろう。腹の底に凝る、『訳の分からない意見を昔のように飲み下せたら』という願いが、私の意識を陰謀論に注視させる。
自分の意見を捻じ曲げてまで、誰かの意見に染まる必要はない。そうする必要を求める人物が渡してくるものは、愛とは呼ばない──自然にそう思えるようになるまでに、一体どれくらいの時間がかかるのだろう。
『あなたを陰謀論者にする言葉』
『あなたを陰謀論者にする言葉』には、陰謀論に関するキーワードが、これでもか! とばかりに掲載されている。氾濫した川に身を投じるがごとく、知らない言葉・理論に巻かれていると、頭がだんだん、クラクラしてくる。
ああー、この煙に巻かれる感じ。理解しようと努めても、いつまでも実態が掴めなくて、にっちも察知もいかなくなる感じ――『あの人たち』との対話にやっぱり似ている!
こんな世界に足を踏み入れ実態を調査し、本を執筆してしまう雨宮さんの頭の中はどうなってるんだ……。
もっともらしい説を唱える者が現れては消えていく陰謀論界隈の歴史に目を通しながら強く感じたのは、陰謀論やマルチ商法といった世界は、何十年という長い歴史のある、根深く、そして身近なものであるということ。私が被害にあっていないのは、たまたま、運がよかっただけにすぎないのだろう。
以前に読んだことのある三崎律日『奇書の世界史』やポール・A・オフィット『禍いの科学』を思い出した。『もっともらしい説』、『自分に都合がいい説』に人間は弱い。時にはそれに従ったばかりに、何百、何千という人間が死ぬ。
陰謀論とまではいかずとも、私たちはそれぞれの自説にしたがいながら日々生活を送っている。
私にしても、科学的根拠を支持する立場に立ってはいるが、確率や客観的な視点を信頼しているというのは建前にすぎず、本当のところは『多くの人が支持しているから』という俗な理由にすぎないのではないかと思ったりもする。
本によれば、巷には科学の要素を取り入れた陰謀論もあるという。
- ただしここで注意が必要なのは、量子力学が説得に使われるのは、スピリチュアル系の人たちが科学を否定しているのではなく、むしろいびつな科学信仰を持っているためだということです。
- (中略)、聖書は信じられない、しかし「考え方を変えればすべてうまくいく」という希望を信じたいというニーズがあるときに、それらしいことを言う量子力学が持ち出されるわけです。
- 「宗教には抵抗がある、科学なら信じられる」からこそ生まれる現象です。
科学は絶対的に正しい! という信頼さえ取りこみ繁茂する陰謀論に対抗するには、科学以外の、もっと別の判断基準も必要なのかもしれない。たとえば、自分や他人が傷ついていないかどうか、とか。
まとめ 「陰謀論はわからない」がわかる本
今回の記事、書き上げるのに非常に苦労した。
なにせ、この本、『陰謀論のことがわかる!』のではなく、『陰謀論のことがわからないことがわかる!』ってな具合でして。
なんというか、こう、盛り上がったシーツを指して、「あの下にあるのが陰謀論です」と言われているような感じとでもいいましょうか。とにかく実態のないものの話をされている、ということだけはわかる、怪談話なんかよりよっぽど奇妙で、得体の知れない話だった。これが現実なんだから世話ぁないぜ。
本に載っていたキーワードの中には、スピリチュアルにハマっていた母親の口から聞いたことのあるものも多々あった。私の母も一歩間違えば、西洋医学断固反対! になっていたかと思うと空恐ろしい。読後、自分の生育環境を改めて捉えなおしたりもしたのだけれど、長くなりそうなので今回は割愛する。陰謀論、ほんと他人事じゃあないですね。
陰謀論の世界と私たちの日常との境界線は思ったよりも曖昧だ。車の運転と同じで、陰謀論に関してもかもしれない運転が大事なのかもしれない。
むむ? これは『あなたを陰謀論者にする言葉』に載ってたキーワードだぞ? 私は陰謀論の世界に足を踏み入れているのかもしれないぞ……。
そういう心構えで、どうにかこうにか世間を渡っていきたいものです。
本日のお隣本
- 三崎律日『奇書の世界史 歴史を動かす “ ヤバい書物 ” の物語』
人々を魔女狩りに駆り立てた『魔女に与える鉄槌』から、現代人の目からすると奇妙すぎる医療について書かれた『軟膏を拭うスポンジ』、偽の歴史をつづった『椿井文書』まで、国内外の奇書を紹介した一冊。何をもって奇書とするか、という観点からして一筋縄ではいかないところが面白い。
個人的には、続刊である『奇書の世界史2』にあった、手洗いの概念を初めて提唱したゼンメルワイスという人物についての章が思い出深い。奇書は、現代の当たり前が当たり前でなかった時代のことを知れる貴重な資料なのかもしれない。 - ポール・A・オフィット『禍いの科学 正義が愚行に変わるとき』
アヘンや優生学など、人類に破滅的な禍いをもたらした7つの発明を取り上げた一冊。ひーひー、悲鳴を上げながら読んだ。「世のため人のために」と奮闘した結果、もう信じられん規模の人間がばったばった死んでいくさまがあまりに恐ろしい。
「賢い人に任せとけば大丈夫」という思考の危うさが学べます。過ちを絶対におかさない人間なんてこの世にはきっといないのだ。科学や歴史に明るくない人でもするする読めると思います。 - 斜線堂有紀『君の地球が平らになりますように』
こちらは短編小説。数年ぶりに再会した片想いの相手が陰謀論にハマっていたら……という設定からして地獄の様相を呈しているのだけれど、話は予想の斜め上へ展開していき、私は最終的に、ああ、ああ……と単音を発するだけの生き物になった。他の恋愛短編と合わせて書籍になっているけれど、表題作であるこちらはネットで試し読みもできる! ぜひに。
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