梨木香歩『椿宿の辺りに』を読みました。

  • しかしあろうことか、その私の人生に「痛み」が関わってくるとは、思えばなんという皮肉であろう、「痛み」は人を否応なく当事者にする。ここにきて悲哀劇的様相すら帯びてきた。なんという混迷。
梨木香歩『椿宿の辺りに』

それなりの数の娯楽にふれた結果、「続き」というものに対する無邪気な気持ちを失ってしまった……。

続編、2、The Final ……タイトルの後に続く、そういう文字列を目にすると、過去の苦い記憶が喜びに「待った!」をかける──おいおい、期待ハズレだったらどうする?

最初の作品に愛着があればこそ、怯えも大きくなるわけで、思い入れの強い『f植物園の巣穴』に連なる物語である『椿宿の辺りに』に対しても、期待半分・怯え半分。本棚の一角で熟成させること、2週間。ようやっとページを開いた。


本作は、前作にも増して、痛みの物語だった。

『f植物園の巣穴』の主人公が抱えていたのは歯痛、今回の主人公は四十肩。それぞれの痛みが閾値を超え、なかなか我慢ならない状態で医者にかかるところから、物語が動き始める。

刃物でつくった傷であれば、適切な処置さえすればそのうちに痛みはひき、傷口も塞がる。そんな風に、始まりと終わりがはっきりしている症状であれば、主人公たちは少しの間不便を感じながらもそのうちに元の生活へ戻ることができたのかもしれない。


主人公・佐田山幸彦は、肩〜腕周りの、原因のはっきりとしない痛みに悩まされている。この、痛みに関する描写が秀逸なのです!

  • 疼痛は言うなれば生活の通奏低音で、激痛はところどころに挟まれる銅鑼の音である。それが突然の大音量で体内に響き渡ると、衝撃のあまりなす術もなくすべての思考と行動は停止を余儀なくされる。声も出せず、居ても立ってもいられぬその痛みに顔だけしかめて耐え忍ぶ。微動だにできぬ状態が数分続く。以前はこの銅鑼が、睡眠中も遠慮会釈なく鳴り響いたものだ。

佐田山幸彦、あなた研究職やっとる場合じゃない! 今すぐ小説家になろう!

激痛を銅鑼の音に例えるの、すごくないですか? 間近で予告もなしに大きな音がした時の「っっっ……!!」と身をすくめる、あの感じ。肌が細かく震え、音がおさまっても、また鳴るんじゃないかと身構える……それは確かに、予期せぬ痛みへの反応によく似ている。銅鑼、というのがまたいい。シンバルよりも容赦のない感じがする。

なんていい表現だー、山幸彦の描写力には勝てる気がしないよと、感嘆のため息を吐くと同時に、心配にもなる。え、そんな痛み抱えてて大丈夫なん??

実際あんまり大丈夫じゃない。
ペインクリニックにて「いわゆる五十肩、四十肩ですね」と診断を受けるものの、根本的な解決には至らない。最終的には、左手を不自然に上げ続けていなければ我慢できない、といった始末。そんな彼が痛みの解決策として選んだのはずばり──椿宿へ行くこと。

これを読んでいるあなたは、きっとこうお思いのことだろう。

椿宿という耳慣れない場所には有名な医院がある、もしくは名医がいるのだろう。あるいは、一度慌ただしい生活を離れて、静かな土地で痛みの治療に専念することにした────そう、すんなりした理屈で動かないところが梨木香歩作品の妙でして。

まず、椿宿に赴くきっかけからしてちょっと妖しい。
乱暴に短く要約するなら、お稲荷さまのお導き。
そしてここが私的面白ポイントなんですけれど、このお話の主人公、決して信心深いわけではないんですよね。「お稲荷さまが呼んでいるだと!? すぐさま馳せ参じないと!」とはならない。

  • 「祀り続けていたとして、彼らがいなくなったら誰も祀ってくれなくなってるってこと?」
  • 「さあ。だからといって、それがどうしたって言いたいですね。年端もいかない子どもじゃあるまいし、または足腰立たない年寄りじゃあるまいし、いいかげん自立してもらいたいもんですね」
  • 「稲荷に言ってるの?」
  • 「ほかの誰に?」

敬語で話しているのが、主人公・佐田山幸彦。
「祀る人のいなくなったお稲荷さんが、久々に参って欲しがっている」という話に対して、「人のことを当てにしていないで自立しろ」と言っている(大真面目な顔して言ってるんだろうなーと思うと、しみじみ面白い)。彼の中では、神も人間も同等で、社会的な自立こそが望ましい状態なのでしょう。

上記のエピソードから何となくお分かりかもしれませんが、この佐田山幸彦という男、作中明言されているわけではないけれど、どうやら何かにつけ、科学的思考や論理的な理由づけを好む性格であるらしい。

ここで突然ながら、千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』の一節を引いてみよう。

  • 「わからない」が続くということは、ばあいによっては苦しいことです。自分はできごとの原因や仕組を知らないと思うと、不安という不快な感情が生まれます。「ただ自分が不愉快な目に遭う。理由は不明」だと、たんに不愉快なだけでなく、解釈したくてもできない、という不安まで掻き立ててしまう。
千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』

ペインクリニックのお医者が説いた、「あなたの痛みは、これこれこういう原因です」「病名は◯◯です」という、山幸彦が常ならば好むはずの西洋医学的アプローチは、痛みを取り去る助けにはなりませんでした。理屈屋の彼は、輪郭のはっきりしない「わからない」を前に、さぞや途方に暮れたことでしょう。

『人はなぜ物語を求めるのか』によると、大きな困難を前にすると「なぜ?」と問わずにはおれないのが、人という生き物であるそうです。


その「なぜ?」は、物事の原因を問うだけにおさまらず、「なぜ、『私が』このできごとに遭遇したのか?」だったりする。この問いに正確な答えを出せるのは神くらいなものでしょう。

客観的事実の観測に基づいた科学的アプローチが、必ずしも癒しをもたらしはしないということ──それはまさに佐田山幸彦の身に起こったことであると同時に、この物語の、ひいては『f植物園の巣穴』の、核心のひとつではないかと思うのです。

  • 私がいつ、「突っかか」り、「揚げ足を取」ったり、「邪魔をしたり」したというのだ、といいたかったがぐっと堪えた。確かに、我々はこの痛みから解放されたいのであって、解放さえされれば、その手段は何であろうが構わないのだから。

上記の、山幸彦が痛みの解決策を求める切実さには、個人的に覚えがある。

私の場合は、心の痛みだった。

いつの間にか『それ』は私の中にあって、原因はわからず、わからないことが苦しい。そんな私がすがったのは占いや神社仏閣だった。星の巡りだとか、前世だとか、そういう証明しがたい理屈でもって、他ならぬ『私』を説明してくれる──そういう概念装置が、あの頃の私には何より必要だった。

科学的説明や客観的事実の外。もっとあいまいで、個人的で、荒唐無稽に思えるような筋道でしか救われない瞬間が、人生にはどうやらある。

どちらが正しいとか正しくないとか、そういうことじゃなくて、人生の選択肢って思っているよりずっとずっと多いんじゃない? 好きに理屈をこねて、肩から下ろせる重荷はどんどん下ろしてこうよ、その分の余裕で下ろせないものを持ち続けようよ――そんな声が聞えてきそうだ。

終盤、山幸彦はとある人物に手紙を出す。

  • 私は長い間、この痛みに苦しめられている間は、自分は何もできない、この痛みが終わった時点で、自分の本当の人生が始まり、有意義なことができるのだと思っていましたが、実は痛みに耐えている、そのときこそが、人生そのものだったのだと、思うようになりました。痛みとは生きる手ごたえそのもの、人生そのものに、向かい合っていたのだと。考えてみれば、これ以上に有意義な「仕事」があるでしょうか。

思わず、息がつまった。痛みに襲われたときと同じように、人は核心を突かれると体の動きが止まるらしい。

私の持っていた「痛みを抱えていては人生をまっとうに送れない」というストーリーが、山幸彦の言葉によってたちまちほどける。痛みに耐える・痛みを何とかしようとする、そういう「自分のためだけに」事を成す時間を、「人生」と、「仕事」と、呼んでもかまわないと彼は言う。

私を置いていくな、佐田山幸彦。私はまだお前みたいに自信をもって言い切れないよ。だけど──

今まで透明にせざるを得なかった、ただただ布団に横になって心身の回復を待つ時間が、質量をもつような気がした。痛みと一緒に、私もたしかに「在った」。昨日よりも、少し、明日がまぶしい。


随分長くなってしまった。ここまでお付き合いしてくれている奇特な方は果たしていらっしゃるのか。いれば、ありがとうだよー。

気になるのは『f植物園の巣穴』を読まずに、『椿宿の辺りに』から入った人はどんな感想になるんだろう、ということ。後者の方が断然読みやすくはあります。

『f植物園〜』がお気に召していた方は、私のように『椿宿〜』を熟成させなくても大丈夫。手にしたらばすぐに開き、佐田御一行とともに椿宿へお向かいください。

今日の勝手に関連本

  • 千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』
    本文中にも引用させてもらった一冊。『人間は物語る動物である』……それってどういうこと? という内容を、丁寧に解説してくれるおもしろ新書。自分って、思考って、人生ってなんなんだーと頭がこんぐらがって楽しい。続編の『物語は人生を救うのか』も面白いよー。
  • はらだ有彩『ダメじゃないんじゃないんじゃない』
    世間で「それっておかしなことだよね」とされてる事柄を、「いやいや、全然そんなことないのでは??」とユーモアを交えた視点で解きほぐしていくエッセイ本。ジャンルもテイストも違うけど、『椿宿の辺りに』に通ずるものがある。山幸彦に読んでほしいかも。
  • 野崎まど『タイタン』
    こちらも病から始まり、完治を求めてさすらう物語なのだけど、なんとクランケはAI! しかも病状は鬱! 「仕事」ってなんなんだ? ──心理学を嗜む主人公とAIが頭を突き合わせて考えていくのですが、最終的に至る結論が……って、話しすぎはよくないね。ぜひ読んでみてー。

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